長谷川等伯(信春)

●長谷川等伯(信春)●


長谷川等伯(信春)は、桃山時代に狩野永徳率いる狩野派と対抗し、自ら「雪舟五代」を名乗り長谷川派の長として活躍した画家です。

1539年(天文8年)、能登国の戦国大名・畠山氏の家臣である奥村文之丞宗道の子として七尾に生まれ、幼い頃に染物業を営む奥村文次という人物を通して、同じく染物屋の長谷川宗清の元へ養子に迎えられたと言われています。

晩年、等伯が自ら語った芸術論を、親しくした本法寺第十世・日通上人が綴った『等伯画説』(京都市・本法寺)の画系譜によると、どうやら養父・宗清も絵描きであったと見られることから、或いは宗清にも学んだ可能性があると考えられています。


善女龍王図

作者:長谷川信春(等伯) (1539~1610)
制作年代:室町末期
印章:「信春」朱文袋形印
員数:1幅
技法1:日本画
技法2:絹本著色
法量(cm):縦35.5 横16.3
指定:石川県指定有形文化財

善女龍王は、空海が京都の神泉苑において請雨経法を修したところ応現したと伝えられる真言密教の護法神で、善如龍王とも表記され男神として修法される。一般的には、雲に乗る龍神の背に立つ中国の官服姿で描かれ、裾の後に蛇の尾が僅かにのぞくといった図様である。代表的な作品としては、高野山金剛峯寺蔵の定智筆、国宝「善如龍王図」がある。
本図は当館が平成14年に購入する以前、少なくとも昭和20年代には「善女龍王図」として所蔵されていた。しかし図様はいわゆる密教絵画とは異なり、金剛峯寺本と比較すると明らかに同種の図像ではない。関連性が指摘されている清滝権現(一般的には十二単の女官姿とされる。畠山記念館本が著名)についても、やはり共通性はあまりみられない。
そこで注目されるのが、『法華経』に登場する娑竭羅竜王の娘である。『法華経』の「提婆達多品第十二」では、8歳の龍女が成仏したという記述がある。また、その龍女が宝珠を仏に奉ったともある。本図の姿はまさに8歳ほどの童女のようであり、水中の岩盤上に立ち、左手には如意宝珠を載せ、後方には赤い宝珠を持った龍が描かれている。また、右手には龍女と関わりが深い利剣を持しており、やはり本図は、法華経信仰と結びついた龍女とするべきであろう。
画面自体の状態は、口部に若干剥落があるものの比較的良好で、小品ながら信春時代の特徴である優美な色彩と精妙な筆致で描かれ、存在感のある作品である。その寸法からして、当時は厨子に祀られていた可能性がある。
右下部には「信春」朱文袋形印が確認される。手や細部の筆致からして、26歳から27歳頃の制作と考えられる。


愛宕権現図

作者:長谷川信春(等伯) (1539~1610)
制作年代:室町末期〜桃山初期
印章:「信春」朱文袋形印
員数:1幅
技法1:日本画
技法2:絹本著色
法量(cm):縦81.3 横36.3
指定:石川県指定有形文化財

京都の山城愛宕山朝日の峯に鎮座する愛宕権現は、蓮華三昧経に説かれ、火伏せの神として祀られた。本地仏は勝軍地蔵で、鎌倉時代以降人々の信仰を集め、特に武将の信仰が盛んであった。
本図は、火焔を背にして甲冑を身に着け、右手に2本の武器を持し、左手に如意宝珠を載せ、正面を向いた乗馬姿という勇ましい姿で描かれている。
制作年については、当時七尾にも愛宕神社が存在したことが分かっている他、「十二天図」(羽咋市・正覚院)との共通点も多いことから、26歳頃の制作との見方もある。しかし、20歳代後半頃の作品と比較すると、火焔だけを見ても明らかに上達の跡が確認され、全体のバランスも絶妙である。さらに、手の描き方は33歳で描いた妙傳寺本「鬼子母神十羅刹女像」に近い表現であり、仏画の場合は一般的なスタイルがあるものの、正式に上洛したと考えられる30歳代前半から中頃の制作と推測される。
画面右下に「信春」袋形印が捺されている。


山水図

作者:長谷川信春(等伯) (1539~1610)
制作年代:室町時代
印章:「信春」朱文袋形印
員数:1幅
技法1:日本画
技法2:紙本墨画淡彩
法量(cm):縦52.8 横38.5
指定:七尾市指定有形文化財

本図は樹木の一部などに淡彩が施された、真体の水墨画である。雄大な山を背景に川が流れ、茅屋を訪ねるのか、橋を渡る高士と琴を携える童子が描かれている。あるいは「琴棋書画図」の場面を取り入れたものかもしれない。右下部に捺された「信春」袋形印や筆致から等伯信春時代の筆とされる。
画面前方右端より、左画面中央に向ってジグザグに屈曲した樹木の表現は、信春時代の「寒江渡舟図」(個人)や「牧馬図屏風」(東京国立博物館)、等伯時代の「列仙図屏風」(京都市・壬生寺)などにも見られる特徴である。斜めに倒れかかった松の枝の形状や人物は、61歳筆「山水図襖」(京都市・隣華院)への繋がりを見せている。しかし、岩の表現にはまだ晩年の強い斧劈皴(斧で削ったような岩の表現)は見られず、山の表現などは51歳筆の「山水図襖」(京都市・圓徳院)に近い。
本図の制作にあたり、手本とした具体的な作品は不明で、狩野派とも筆法や趣が異なるが、玉畹梵芳などによる賛がある、応永12(1405)年筆の「柴門新月図」(大阪市・藤田美術館)や、等伯を認めた春屋宗園(1529〜1611)に参禅し、大徳寺に孤篷庵を建てた小堀遠州(1579〜1647)の愛蔵品であったとされる、文清筆「山水図」(米国・ボストン美術館)などに共通性が見出せる。すなわちそこには、様々な室町水墨画や中国絵画を学習し、吸収しようとする若き等伯の姿があり、恐らく30歳代後半頃の制作であろう。


陳希夷睡図

作者:長谷川信春(等伯) (1539~1610)
制作年代:桃山時代
印章:「長谷川」朱文長方形印、「信春」朱文鼎形印
員数:1幅
技法1:日本画
技法2:紙本墨画
法量(cm):縦48.1 横23.1
指定:石川県指定有形文化財

描かれた人物は、中国10世紀頃の5代・宋時代初期に活躍したとされる、道士陳摶(?~989)である。湖南の武当山に隠遁し道術を修め、後に太宗より陳希夷の号を賜り、張超谷に石室を掘って籠ったという逸話がある。占術の分野でも知られ、宋学の根幹となる(太極図)は陳希夷の作ともいわれ、他にも『正易心法』『指玄篇八十一章』『三峰寓言』『高陽集』など多くの著作がある。また、睡眠に関しては3年も眠り続けた奇行が伝えられ、本図でも樹下において椅子の肘掛けに寄りかかり、気持ちよさそうに眠る様子がなんともユーモラスである。
『等伯画説』(京都市・本法寺)には、紫野(大徳寺)に雪舟の描いた、樹下や岩に寄りかかりて眠るチントン南(陳摶)の絵について記述されており、現在その消息は不明であるが、本図を描くにあたり参考とした可能性は充分考えられる。
左下部に捺された「長谷川」朱文重廓長方印と共に捺されている「信春」印は、20歳代後半頃から使用している袋形とは異なり、狩野派の絵師が好んで用いる鼎形である。淡墨による上部の枝葉には、50歳代制作の「竹林猿猴図屏風」(京都市・相国寺)へ繋がる表現が確認されるが、人物の衣紋線に見る打ち込みの目立つ短線による筆法には、狩野派の影響が看取される。さらに、『丹青若木集』には、等伯が狩野元信の3男・松栄(1519〜92)に師事したとあり、『長谷川家系譜』(仲家本)や『七尾町旧記』には、最初元信の長男・祐雪(1514〜62)に学んだとの記述もあり、狩野派の誰に学んだかという断定は難しいが、狩野派に在籍した40歳代前半頃の筆と推定される。
この印が捺された作品は、本図の他に現存の「蘆葉達磨図」(岡山県立美術館)と「花鳥図屏風」(岡山県・妙覚寺)、『古畫備考』に記載が認められる「四季山水人物図屏風」、所在不明の「神農図」の五点のみであり、袋形印と等伯印を繋ぐ一時期の制作と考えられる。


猿猴図屏風

作者:長谷川等伯(1539〜1610)
制作年代:桃山時代員数:2曲1隻
技法1:日本画
技法2:紙本墨画
法量(cm):縦160.0 横240.0
指定:石川県指定有形文化財

本図は平成27年4月に新発見作品として全国ニュースとなった作品で、発見当初は損傷が激しかったが、修復されてよみがえった。旧所蔵者である京都造形芸術大学のご厚意で、同年七尾市が購入し、同年秋に特別公開した。
本図は「松竹図屏風」と共に伝わっているが、現段階では別の作品として紹介している。右扇の右端下部から大きな樹木の幹が二手に分かれ、その内1本は画面中央を横切って左扇へ伸び、そこに猿が1匹座っている。樹木の根元周辺には岩と笹が配されている。その猿は、「枯木猿猴図」(京都市・龍泉庵)右幅の母猿と、全く同じポーズである。「枯木猿猴図」では母猿の肩の上に子猿が描かれており、本図をよく見ると母猿の右側に子猿の小さな手が確認され、よく似た子猿が描かれていたことが想像される。次に左扇に移ると、「枯木猿猴図」の左幅に描かれる枯木にぶら下がる父猿らしき猿と、そっくりな猿が描かれている。
また、右扇の母子猿は足の向きは逆であるが、「竹林猿猴図屏風」(京都市・相国寺)の母子猿とも近似し、父猿は「猿猴捉月図襖」(京都市・金地院)の猿ともほぼ同じポーズである。興味深いのは猿の毛の筆法である。本図では縮れたような描き方が特徴的で、相国寺本や龍泉庵本の筆法とは明らかに異なる。
しかし、相国寺本と龍泉庵本でもかなり描き方に違いがあり、意図的に描き分けたものと解釈される。調査にあたった黒田泰三氏も述べられているように、足の立体感は的確に描写され、顔の濃墨の入れ方、淡墨の上から鋭くかつ丁寧に描き込んだ毛、笹の勢いあるタッチや右端中頃の濃墨の樹葉なども、等伯の表現といってよい。制作年代については、研究者の中でも若干見解が分かれる。50歳代初めとなると、相国寺本と近いが、筆法からして相国寺本より前ではないであろう。
一方龍泉庵本は、線自体に重きを置いている感があり、「濃墨を多用した豪快な筆さばき」という60歳代の特徴であり、本図より後の制作と考えられる。また、本図の細く鋭い毛描きは金地院本に最も近く、両者は近い時期に描かれた可能性がある。現在のところは、50歳代後半頃の筆としておきたい。
なお、画面の構図や、右扇と左扇の各中心には縦の褪色が見られることから、本図は6曲屏風の4扇分で、本来は左右にもう1扇分ずつあったと解される。左側には捉月図が交わって、金地院本のように水面に映る月が描かれていた可能性もある。


松竹図屏風

作者:長谷川等伯(1539〜1610)
制作年代:桃山時代員数:2曲1隻
技法1:日本画
技法2:紙本墨画
法量(cm):縦160.0 横240.0
指定:石川県指定有形文化財

本図は「猿猴図屏風」と共に修復され、平成27年に「等伯の真筆水墨画新発見」として発表された作品である。「猿猴図屏風」と同じく七尾市が購入し、同年特別公開した。
本図は画面左扇の左端から右上方に向って大きな松樹が覗き、右扇の右端まで緩やかなカーブを描いて枝を伸ばす。下部には土坡が描かれ、左扇松の後方から孟宗竹が茂り右扇へと続いていく。濃墨を効かせながら淡墨と巧みに描き分け、遠近感を表す。右扇に行く程淡墨で消えゆくように描かれた部分を、北春千代氏は「靄のかかったような叙情感を誘う表現が意図されている」と述べられた。
老松の樹皮は、「老松図襖」(京都市・金地院)の樹皮の表現と酷似し、「烏鷺図屏風」(DIC川村記念美術館)の、左隻松樹の樹皮表現へと繋がっていく。さらに、竹の節と節との間の稈に、横に濃い墨を2筆入れる独特の表現や、墨の濃淡によって風になびく葉叢を巧みに表現した部分は、「竹鶴図屏風」「竹虎図屏風」(何れも出光美術館)と酷似する。「竹鶴図屏風」のメリハリの利いた墨の濃淡表現や、一気に引いた迷いのない幹の線などは、「松林図屏風」に最も近いと評価されるが、本図は墨の艶といい調子といい筆法といい、その「竹鶴図屏風」と極めて近く、注目に値する。
本図の制作年については、「猿猴図屏風」と若干ずれるとの見方もあるが、墨色や筆の勢いなどを見る中では、「猿猴図屏風」と近い、50歳代後半頃の制作ではないかと解される。
なお、「猿猴図屏風」と同じく各扇中央に縦の変色が見られ、本図も6曲屏風の4扇分で、本来は左右にもう1扇ずつあったと考えられる。現状でも迫力があるが、制作当初はさらに広がりが感じられる秀作であったと思われる。