●長谷川等伯(信春)とは●●●

 長谷川等伯(信春)は、桃山時代に狩野永徳率いる狩野派と対抗し、自ら「雪舟五代」を名乗り長谷川派の長として活躍した画家です。
 1539年(天文8年)、能登国の戦国大名・畠山氏の家臣である奥村文之丞宗道の子として七尾に生まれ、幼い頃に染物業を営む奥村文次という人物を通して、同じく染物屋の長谷川宗清の元へ養子に迎えられたと言われています。
 晩年、等伯が自ら語った芸術論を、親しくした本法寺第十世・日通上人が綴った『等伯画説』(京都市・本法寺)の画系譜によると、どうやら養父・宗清も絵描きであったと見られることから、或いは宗清にも学んだ可能性があると考えられています。

■能登の時代 20歳代後半〜33歳頃
「日蓮聖人坐像」七尾市・本延寺蔵 現在、知られている作品で最も初期の作品は26歳筆の落款のあるもので、能登を中心に石川県・富山県などに10数点が確認されています。これらの作品には、袋形の「信春」印が捺されており、等伯若年期には信春の名で活躍していたことが知られています。その内、奥村家の菩提寺・本延寺の等伯が自ら彩色寄進した木造「日蓮聖人坐像」(七尾市・本延寺蔵)、「日乗上人像」(羽咋市・妙成寺蔵)、「日蓮聖人像」「釈迦・多宝仏図」「鬼子母神・十羅刹女図」「三十番神図」(4点共、高岡市・大法寺蔵)、平成14年に東京国立博物館の調査で明らかとなった、33歳筆「鬼子母神・十羅刹女図」(富山市・妙傳寺蔵)は何れも日蓮宗関係であり、等伯自身も熱心な法華信者であったことがうかがわれます。

■京都・堺の時代 30歳代中頃〜40歳代
 当時の能登七尾と京都との関係は想像以上に強く、畠山の時代にも京都の文化人や僧侶が訪れており、京都の文化は海のルートでストレートに入ってきていたと考えられます。『等伯画説』の内容から、この能登地方に優れた先人の絵画が存在していたことが伺われますし、当時、法華寺院の住職は年に一度必ず本山へ出向いたとの事ですから、等伯もそういった法華の繋がりですでに京都と行き来していた可能性が高いのです。
 等伯33歳の時、養父母が相次いで亡くなっており、恐らくはそれを機に妻子を連れて上洛したのではないかと考えられています。当時の平均寿命が40歳前後と言われていますから、当時30歳を過ぎて大舞台京都を目指すには、かなりの自信と強いバックアップがあったのではないかと考えられます。

「日堯上人」京都市・本法寺蔵 さて、上洛後等伯は、本延寺の本山・本法寺の塔頭である教行院に住し、制作活動を行います。本法寺には、その当時の住職で若くして亡くなった日堯上人の肖像画が現存し、「父道浄六十五歳」「長谷川帯刀信春三十四歳筆」の款記と袋形「信春」印が確認されています。本作品は、美術作品としてはもちろんの事、等伯研究で知られた故 土居次義氏が「長谷川等伯・信春同人説」を提唱されるに至った、重要な資料としても知られています。
 能登周辺以外にも「信春」印作品が所蔵されており、その筆致からも上洛後しばらくは「信春」印を使用していたと見られます。しかし、40歳代筆とはっきり款記のある作品は現存せず、40歳代の活動については不明な点が多く、岡山県立美術館所蔵の「達磨図」と岡山県妙覚寺所蔵の「花鳥図屏風」には、主に狩野派が好んで使用した鼎(壷)形の「信春」印が捺されていることから、狩野派との関係も指摘されてきました。それが、平成14年に七尾市が購入した新出の「陳希夷睡図」によって、かなり鮮明に見えてくることになります。
「陳希夷睡図」当館蔵 本図は、樹下で眠る陳希夷の姿を描いた水墨画で、小品ではありますが確かな筆致を見ることができます。晩年の等伯作品に通ずる樹木や人物の顔描の他、興味深いのは狩野派を思わせる衣紋の線です。また、海老根聰郎氏は、梁櫂との関わりも指摘されています。京都に出て仕事をするには、等伯といえども最初はやはり狩野派の門をくぐったのかも知れません。さらに、特筆すべきは『等伯画説』の一文です。そこには、紫野(大徳寺)にある雪舟の描いたチントン南(陳希夷)の記述があり、これをそのまま解釈すれば、当時大徳寺に雪舟の描いた「陳希夷睡図」があり、等伯がその作品を見て影響を受けたとしても不思議ではないのです。すなわちこの時期は、狩野派のみならず様々な画派の絵画を学び消化吸収し、そこから等伯ならではの独自の表現を試みていった、非常に重要な期間と言えます。
 50歳代からの動向を見ればわかるように、等伯の美意識は狩野派の美意識とはかなり異なるものであり、しだいに狩野派を離れていったと思われます。そして等伯は、本法寺の日通上人や、千利休らと親交を結んでいったのではないかと考えられるのです。等伯が最も親しくしたといわれる日通上人と千利休は共に堺の出身であり、等伯の後妻である妙清(先妻の妙浄は、等伯41歳の時に死去)も堺の出身です。日通上人は、等伯が48歳の時に本法寺に入寺しますが、その前に堺で等伯と親しくなったとも考えられます。当時の堺は素晴らしい商業都市で、多くの文化人たちが集う場所でした。茶の湯も大変流行しており、茶室には中国や日本の優れた絵師による軸が掛けられていたと見られ、等伯もそれらの作品に直に接し学ぶところも多かったのではないでしょうか。
 また、現存はしないものの、45歳の時に大徳寺頭塔である総見院に「山水図」「山水図」「芦雁図」を描いたという記録が残っており、利休らを通じてこの頃より大徳寺などの大きな仕事を受けるようになっていたと見られます。これらの大きな仕事をこなすには、当然2~3人ではなくある程度のまとまった絵師たちが必要ですから、狩野派と同じとまではいかないにせよ、等伯40歳代中頃にはすでに長谷川派と呼ばれるような絵師たちを率いていたことが推測されるのです。

■京都の時代 50歳代
 等伯は51歳の時、大徳寺山門に天井画と柱絵を描いています。しかし、ここには等伯の伯の1字を異する「長谷川等白五十一歳筆」の款記があり、作風からも等伯筆を疑問視する研究者も多く、未だ確かなことは解っていません。その後、等伯52歳の時に仙洞御所障壁画の仕事が決まりそうになったのですが、狩野派の圧力により阻止されたという出来事が、勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』に記されています。この時の等伯の憤りは、大変なものであったと思われますが、その後すぐに狩野派の長である永徳が48歳でこの世を去るのです。そしてその翌年、わずか3歳で亡くなった秀吉の嫡子である鶴松の菩提寺・祥雲寺の大仕事が等伯の元に舞い込みます。今度は逆に、派の長である永徳を亡くして動揺を隠し切れないでいるところに、「京都第一の寺」と言われた祥雲寺障壁画(現 智積院)の大仕事を等伯率いる長谷川派に持っていかれた狩野派の憤りは、計り知れないものであったと解されます。等伯は、永徳を強く意識しながらも、金碧障壁画でありながら狩野派にはない抒情的な自然表現を試み、等伯はこの仕事を通して名実共に狩野派に対抗するまでになったのです。しかし、その等伯に次々と悲しみが襲います。この障壁画完成の前年に、良き理解者であった千利休が自刃するのです。そして、その悲しみの中で完成させた矢先、等伯の片腕となって制作にあたった息子の久蔵までが、26歳という若さで亡くなってしまうのです。
 その悲しみを背負って描いたと言われるのが、「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)です。これは等伯筆「楓図」や久蔵筆「桜図」など祥雲寺の一連の障壁画と同じく、国宝に指定されています。この松林図は、日本を代表する水墨画の名作として特に近年注目を集めていますが、紙継ぎがずれていることや、捺されている「等伯」印が後印と見られること、それに加えて最近「月下松林図屏風」(個人蔵)の存在が明らかとなり、「松林図屏風」は本画ではなく下絵の可能性があると見る研究者もいます。しかし、いずれにしてもこの国宝本の筆者は等伯以外には考えられず、広く一般や専門家たちの間でも周知のこととなっています。

海岸沿いの松林 当時、七尾の海岸沿いにはずっと松林が続いていたと考えられます。描かれた松林は、強風に耐え細く立ちすくむ能登の松林に、あまりにも似ています。良き理解者である千利休を亡くし、息子久蔵を失った等伯の目に映ったのは、郷里七尾の松林だったのかも知れません。心象風景とも見えるこの「松林図屏風」には、大切な人たちの死を乗り越え、水墨画にその境地を求めていった等伯の心情が映し出されているのです。  等伯50歳代は、深い悲しみに見舞われながらも、「松林図屏風」をはじめ「竹林猿猴図屏風」(相國寺・承天閣美術館蔵)や「樹下仙人図屏風」(京都市・壬生寺蔵)、「枯木猿猴図屏風」(妙心寺・龍泉庵蔵)や出光美術館所蔵で知られる「竹鶴図屏風」「松に鴉・柳に白鷺図屏風」「竹虎図屏風」など多くの優れた水墨画を制作し、画家としては最も充実した時代だったとも言えるのです。

■京都の時代 60歳代
 等伯は、老年期とも言われる60歳になっても次々と大作を手掛けていきます。61歳の時には、妙心寺隣華院の襖に「山水図」襖を描いています。そして、63歳の時には大徳寺塔頭の真珠庵の襖に「商山四晧図」「蜆子猪頭図」を描き、その翌年には南禅寺塔頭の天授庵に「商山四晧図」「禅機図」「松に鶴図」などの襖絵を制作しています。しかし、この頃になると若干等伯の筆とは解しにくい部分も見受けられ、等伯も多くの長谷川派絵師を従え、一派で制作にあたったものと推測されます。
 一方で等伯は、親しくした人物の肖像や「大涅槃図」なども描いています。本法寺所蔵の「大涅槃図」は、京都三大涅槃図の一つに数えら

「大涅槃図」京都市・本法寺蔵れる大幅で、華やかな描表具を含めると高さ10mにも及びます。本図は供養を行う前に宮中に持参し、披露したという記録も残っている作品で、「雪舟五代」と「六十一歳」の書き込みがあり、60歳前後から「自分は雪舟より五代目なのだ」ということを強く打ち出し、より長谷川派の結束を固めようとしたと解されます。注目されるのは、本図表具の裏には日蓮聖人以下の諸祖師、本法寺開山の日親上人以下歴代住職及び、祖父母や養父母、等伯より先立った息子たちなどの供養銘が記されていることです。老齢の等伯が、一派で描いた大涅槃図…いったいどんな思いで描いたのでしょうか。この大きな画面の中で嘆き悲しむ弟子や動物たちを前にした時、まるで先立っていった人々への等伯の哀悼と供養の想いが伝わってくるようです。
 等伯は66歳の時「法橋」に叙せられています。これは元々、宮中から高僧に対して授ける位でしたが、功績のあった優れた絵師たちにも与えられるようになりました。『御湯殿上日記』によると、等伯がそのお礼に屏風1双を宮中に持参したと記されています。当時は、この位を貰うために様々な品が献上されたといわれますが、屏風の場合4双程度必要であったといいますから、そのまま解釈すると等伯の1双というのは特例ではないかと思われます。それから、長谷川家の系図には、等伯は67歳の時、法橋の次の位である「法眼」に叙せられたと記されています。これを裏付けるように、アメリカのボストン美術館には「自雪舟五代長谷川法眼等伯筆 六十八歳」の落款のある「龍虎図屏風」が現存しています。しかし、当時一般的には「法橋」から「法眼」までは4~5年かかるとされており、1年後となるとかなり異例のことと言えることなどから、この「法眼」叙任については疑問視する研究者もいます。また、故山根有三氏はその問題に加え、制作中の等伯が慶長九年(66歳)12月に高所より墜落し、右手が不自由となるという記録(『医学天正記』)に注目、それを裏付けるようにそれ以降の作品は線描も粗く硬く繊細さに欠けることなどの理由から、67歳以降の落款がある作品については、ほとんどが弟子の筆と提唱されています。

■京都の時代 70歳〜72歳
 等伯70歳の時、親しくしていた本法寺の日通上人が亡くなり、等伯はその日通上人の肖像を描いています。また、71歳の時には大徳寺塔頭の高桐院住職・玉甫紹王宗の肖像も描いていますが、いずれも若年期の肖像画と比較すると線描は簡略化されてかなり異なることや、「日通上人像」にある「自雪舟五代 長谷川 法眼 等伯筆 七十歳 戒名日妙」の書き込みと「長谷川」「等伯」印も後落款とする見方もあり、やはり等伯筆を疑問視する声もあります。しかし、日通は最も親しくしたと見られる人物ですから、その肖像画を弟子に描かせるとは考えにくいのではないでしょうか。また、作品からは日通の実直な人柄までもが伝わってきますし、やはり日通をよく知リ尽くした等伯が、筆力の衰えを実感しながらも描いたのではないでしょうか。
 慶長15年、等伯72歳の時に徳川家康から江戸に呼ばれ下向しますが、現在のような便利な交通手段があるわけもなく、72歳という高齢で江戸に向かうというには、かなりの覚悟があったと思われます。後の長谷川派の命運をかけての一大決心だったのでしょう。しかし、高齢の等伯にとってこの長旅は、やはり無理があったのでしょう。途中で病に冒され、江戸到着後2日目に亡くなってしまうのです。さぞかし無念であったと思います。長男の久蔵亡き後、等伯の後継者となるはずの二男・宗宅も等伯に同行しますが、等伯が没した翌年に亡くなっています。

■その後の長谷川派
 等伯を失った後の長谷川派には、等伯と並ぶほどの弟子が存在しなかったのか、完全に工房体制を確立していた狩野派の様には振る舞えず、次第に勢力を失っていきます。しかし、三男・宗也や四男・左近の絵馬や扁額、屏風などの存在も知られる他、特に左近あたりは他派の作風を積極的に取り入れ、時代に対応していった様子が窺われます。また、江戸時代には長谷川派の絵師が城内障壁画などの仕事で、狩野派と共に参加していたことが記録に残されていますし、京都周辺に限らず全国的に作品が点在していることなどから、必ずしも長谷川派に固執せず、幅広く様々な仕事に参加していったものと推測されます。

■年表

西暦 年号 等伯年齢 長谷川派関連事項(等伯及び息子の事項を中心に記載)
※等伯は40歳代頃まで「信春」を名乗ったといわれるが、表記は「等伯」で統一。※人物名記載のない作品・事柄については、等伯の関連事項。※掲載事項は平成15年10月現在のものである。
1539 天文8 1 長谷川等伯、能登国七尾に生まれる 実父は能登守護畠山氏の家臣・奥村文之丞宗道、のちに染物屋を営む長谷川家の養子となる。若い頃の名は信春、又四郎、帯刀など
1563 永禄6 25 この頃「日乗上人像」(羽咋市・妙成寺蔵)
1564 永禄7 26 「十二天図」(羽咋市・正覚院蔵) 「日蓮聖人像」「鬼子母神・十羅刹女図」「釈迦・多宝仏図」(高岡市・大法寺蔵、全て重文) 「八臂弁財天十五童子図」(個人蔵) 木彫「日蓮聖人坐像」(七尾市・本延寺蔵)彩色 この頃「善女龍王図」(当館蔵)
1565 永禄8 27 「日蓮聖人像」(七尾市・實相寺蔵)
1566 永禄9 28 「三十番神図」(高岡市・大法寺蔵、重文)
1568 永禄11 30 「涅槃図」(羽咋市・妙成寺蔵) 長男・長谷川久蔵生まれる
1571 元亀2 33 「鬼子母神・十羅刹女図」(富山市・妙傳寺蔵) 養父・宗清(道浄)、養母・妙相没(共に享年不詳) この頃に上洛し、本法寺塔頭教行院に滞在する
1572 元亀3 34 「日堯上人像」(京都市・本法寺蔵、重文)
1570 年代頃 元亀~ 天正初年頃   この頃「牧馬図屏風」(東京国立博物館蔵) この頃「愛宕権現図」(当館蔵) この頃「伝名和長年像」(東京国立博物館蔵、重文) この頃「武田信玄像」(高野山・成慶院蔵、重文)
1579 天正7 41 妻・妙浄没(享年不詳) この頃「花鳥図屏風」(岡山県・妙覚寺蔵、重文) この頃「陳希夷睡図」(当館蔵)
1583 天正11 45 大徳寺総見院「水墨山水、松猿、竹鶴、芦雁図」(現存せず)
1589 天正17 51 「大徳寺山門天井画・柱絵」(京都市・大徳寺蔵、重文)現存する唯一の「等白」記名作品 この頃名を等伯と改める 大徳寺三玄院「山水図襖」(現 圓徳院および楽家蔵、重文) 妙清を後妻に迎える この頃「瀟湘八景図屏風」(東京国立博物館蔵)
1590 天正18 52 御所造営に際し、対屋の障壁画制作を巡って狩野永徳一門と対立する この頃「竹林猿猴図屏風」(京都市・相國寺蔵、重文) 三男・長谷川宗也生まれる
1591 天正19 53 この頃「竹鶴図屏風」(東京都・出光美術館蔵)
1592 文禄元 54 この頃、本法寺第十世住職・日通上人著『等伯画説』(京都市・本法寺蔵、重文) 久蔵「朝比奈草摺曳図絵馬」(京都市・清水寺蔵)
1593 文禄2 55 等伯一門「祥雲寺障壁画」(現 京都市・智積院蔵、国宝) この頃「松に鴉・柳に白鷺図屏風」(東京都・出光美術館蔵) 長谷川久蔵没(享年26歳) 四男・長谷川左近生まれる
1594 文禄3 56 「春屋宗園像」(京都市・三玄院蔵) この頃「松林図屏風」(東京国立博物館蔵、国宝)
1595 文禄4 57 「利休居士像」(京都市・不審庵蔵、重文) この頃「樹下仙人図屏風」(京都市・壬生寺蔵、重文) 等伯一門、この頃「妙蓮寺障壁画」(京都市・妙蓮寺蔵、重文)
1598 慶長3 60 「妙法尼像」(京都市・本法寺蔵、重文) この頃「枯木猿猴図」(京都市・龍泉庵蔵、重文)
1599 慶長4 61 「仏涅槃図」(京都市・本法寺蔵、重文)を描き、宮中に持参したのち、本法寺に寄進する この頃本法寺本堂「天井画、襖絵」(現存せず) 妙心寺隣華院「山水図襖」(京都市・隣華院蔵、重文) この頃「波濤図」(京都市・永観堂禅林寺蔵、重文) この頃から「自雪舟五代」を自称するか 長谷川派絵師・長谷川等誉「白描涅槃図」(七尾市・成蓮寺蔵)
1601 慶長6 63 大徳寺真珠庵「商山四皓図襖」「蜆子猪頭図襖」(京都市・真珠庵蔵、重文)
1602 慶長7 64 南禅寺天授庵「商山四皓図襖」「禅機図」など(京都市・天授庵蔵、重文) 大徳寺「高桐院障壁画」(現存せず)
1603 慶長8 65 日親上人筆「本尊曼荼羅」(京都市・本法寺蔵、重文)を本法寺に寄進する 大徳寺「金龍院襖絵」(現存せず)
1604 慶長9 66 法橋となり、その礼に屏風一双などを宮中へ献上する 本法寺天井画制作中に転落、右手不自由となるか 後妻・妙清没(享年45歳)
1605 慶長10 67 法眼となるか
1606 慶長11 68 「龍虎図屏風」(アメリカ・ボストン美術館蔵) この頃「烏鷺図屏風」(千葉県・川村記念美術館蔵、重文) 長谷川派絵師・長谷川等胤、下総国香取神社(千葉県佐原市)の建築彩色を行う
1607 慶長12 69 「竹林七賢図屏風」(京都市・両足院蔵) 「烏梟図屏風」(大阪市立美術館蔵)
1608 慶長13 70 日通上人没(享年58歳) 「日通上人像」(京都市・本法寺蔵、重文) 「弁慶・昌俊図絵馬」(京都市・北野天満宮蔵、重文) 大徳寺「龍光院襖絵」(現存せず)
1609 慶長14 71 「玉甫紹●(王に宗)像」(京都市・高桐院蔵) 「十六羅漢図屏風」(京都市・智積院蔵) 等誉「涅槃図」(七尾市・本延寺蔵)
1610 慶長15 72 二男・長谷川宗宅を伴い、江戸へ下向する 長谷川等伯没(享年72歳) 宗宅、法橋となり、その礼に金子を宮中に献上する 等誉「法華経見返絵」(個人蔵)
1611 慶長16   長谷川宗宅没(享年不詳)
1613 慶長18   等伯の娘婿・長谷川等秀没(享年不詳)
1617 元和3   長谷川派絵師・長谷川等仁、明石城(兵庫県明石市)襖絵制作に参加するか
1620 元和6   等胤「瑞巖寺障壁画」(仙台市・瑞巖寺蔵)制作に参加する
1623 元和9   等伯の娘婿・長谷川等学(等岳)没(享年不詳)
1624 寛永元   左近「三番叟図絵馬」(佐渡・実相寺蔵)
1629 寛永6   長谷川派絵師・長谷川宗圜(等雪)「藤花・牧牛図屏風」(大津市・盛安寺蔵)
1630 寛永7   左近「三十六歌仙図板絵」(滋賀県・海津天神社蔵) 左近、この頃「自雪舟六代」を自称するか
1636 寛永13   長谷川等誉没(享年不詳)
1637 寛永14   長谷川宗伯信近生まれる
1657 明暦3   宗也「大黒布袋角力図板絵」(京都市・八坂神社蔵)
1662 寛文2   宗伯信近、法橋となる
1664 寛文4   宗也「虎図絵馬」(京都市・清水寺蔵)
1667 寛文7   長谷川宗也没(享年78歳)

■所蔵作品

○善女龍王図[ぜんにょりゅうおうず]
石川県指定有形文化財善女龍王図
作者:長谷川信春(等伯)
材質技法:絹本著色
印章:「信春」朱文袋形印
制作:室町末期
法量:縦35.5cm 横16.3cm

 善女龍王は、空海が京都の神泉苑において請雨経法を修したところ応現したと伝えられる真言密教の護法神で、善如龍王とも表記され男神として修法される。一般的には、雲に乗る龍神の背に立つ中国の官服姿で描かれ、裾の後に蛇の尾が僅かにのぞくといった図様である。代表的な作品としては、高野山金剛峯寺蔵の定智筆、国宝「善如龍王図」がある。
 本図は当館が平成14年に購入する以前、少なくとも昭和20年代には「善女龍王図」として所蔵されていた。しかし図様はいわゆる密教絵画とは異なり、金剛峯寺本と比較すると明らかに同種の図像ではない。関連性が指摘されている清滝権現(一般的には十二単の女官姿とされる。畠山記念館本が著名)についても、やはり共通性はあまりみられない。
 そこで注目されるのが、『法華経』に登場する娑竭羅竜王の娘である。『法華経』の「提婆達多品第十二」では、8歳の龍女が成仏したという記述がある。また、その龍女が宝珠を仏に奉ったともある。本図の姿はまさに8歳ほどの童女のようであり、水中の岩盤上に立ち、左手には如意宝珠を載せ、後方には赤い宝珠を持った龍が描かれている。また、右手には龍女と関わりが深い利剣を持しており、やはり本図は、法華経信仰と結びついた龍女とするべきであろう。
 画面自体の状態は、口部に若干剥落があるものの比較的良好で、小品ながら信春時代の特徴である優美な色彩と精妙な筆致で描かれ、存在感のある作品である。その寸法からして、当時は厨子に祀られていた可能性がある。
 右下部には「信春」朱文袋形印が確認される。手や細部の筆致からして、26歳から27歳頃の制作と考えられる。

 

 

○愛宕権現図[あたごごんげんず]愛宕権現図
石川県指定有形文化財
作者:長谷川信春(等伯)
材質技法:絹本著色
印章:「信春」朱文袋形印
制作:室町末期~桃山初期
法量:縦81.3cm 横36.3cm

 京都の山城愛宕山朝日の峯に鎮座する愛宕権現は、蓮華三昧経に説かれ、火伏せの神として祀られた。本地仏は勝軍地蔵で、鎌倉時代以降人々の信仰を集め、特に武将の信仰が盛んであった。
 本図は、火焔を背にして甲冑を身に着け、右手に2本の武器を持し、左手に如意宝珠を載せ、正面を向いた乗馬姿という勇ましい姿で描かれている。
  制作年については、当時七尾にも愛宕神社が存在したことが分かっている他、「十二天図」(羽咋市・正覚院)との共通点も多いことから、26歳頃の制作との見方もある。しかし、20歳代後半頃の作品と比較すると、火焔だけを見ても明らかに上達の跡が確認され、全体のバランスも絶妙である。さらに、手の描き方は33歳で描いた妙傳寺本「鬼子母神十羅刹女像」に近い表現であり、仏画の場合は一般的なスタイルがあるものの、正式に上洛したと考えられる30歳代前半から中頃の制作と推測される。
 画面右下に「信春」袋形印が捺されている。

 

 

○山水図[さんすいず]
山水図七尾市指定有形文化財
作者:長谷川信春(等伯)
材質技法:紙本墨画淡彩
印章:「信春」朱文袋形印
制作:室町時代
法量:縦52.8cm 横38.5cm

 本図は樹木の一部などに淡彩が施された、真体の水墨画である。雄大な山を背景に川が流れ、茅屋を訪ねるのか、橋を渡る高士と琴を携える童子が描かれている。あるいは「琴棋書画図」の場面を取り入れたものかもしれない。右下部に捺された「信春」袋形印や筆致から等伯信春時代の筆とされる。
 画面前方右端より、左画面中央に向ってジグザグに屈曲した樹木の表現は、信春時代の「寒江渡舟図」(個人)や「牧馬図屏風」(東京国立博物館)、等伯時代の「列仙図屏風」(京都市・壬生寺)などにも見られる特徴である。斜めに倒れかかった松の枝の形状や人物は、61歳筆「山水図襖」(京都市・隣華院)への繋がりを見せている。しかし、岩の表現にはまだ晩年の強い斧劈皴(斧で削ったような岩の表現)は見られず、山の表現などは51歳筆の「山水図襖」(京都市・圓徳院)に近い。
 本図の制作にあたり、手本とした具体的な作品は不明で、狩野派とも筆法や趣が異なるが、玉畹梵芳などによる賛がある、応永12(1405)年筆の「柴門新月図」(大阪市・藤田美術館)や、等伯を認めた春屋宗園(1529〜1611)に参禅し、大徳寺に孤篷庵を建てた小堀遠州(1579〜1647)の愛蔵品であったとされる、文清筆「山水図」(米国・ボストン美術館)などに共通性が見出せる。すなわちそこには、様々な室町水墨画や中国絵画を学習し、吸収しようとする若き等伯の姿があり、恐らく30歳代後半頃の制作であろう。

 

 

○陳希夷睡図[ちんきいすいず]陳希夷睡図
石川県指定有形文化財
作者:長谷川信春(等伯)
材質技法:紙本墨画
印章:「長谷川」朱文長方形印、「信春」朱文鼎形印
制作:桃山時代
法量:縦48.1cm 横23.1cm

 描かれた人物は、中国10世紀頃の5代・宋時代初期に活躍したとされる、道士陳摶(?~989)である。湖南の武当山に隠遁し道術を修め、後に太宗より陳希夷の号を賜り、張超谷に石室を掘って籠ったという逸話がある。占術の分野でも知られ、宋学の根幹となる(太極図)は陳希夷の作ともいわれ、他にも『正易心法』『指玄篇八十一章』『三峰寓言』『高陽集』など多くの著作がある。また、睡眠に関しては3年も眠り続けた奇行が伝えられ、本図でも樹下において椅子の肘掛けに寄りかかり、気持ちよさそうに眠る様子がなんともユーモラスである。
 『等伯画説』(京都市・本法寺)には、紫野(大徳寺)に雪舟の描いた、樹下や岩に寄りかかりて眠るチントン南(陳摶)の絵について記述されており、現在その消息は不明であるが、本図を描くにあたり参考とした可能性は充分考えられる。
 左下部に捺された「長谷川」朱文重廓長方印と共に捺されている「信春」印は、20歳代後半頃から使用している袋形とは異なり、狩野派の絵師が好んで用いる鼎形である。淡墨による上部の枝葉には、50歳代制作の「竹林猿猴図屏風」(京都市・相国寺)へ繋がる表現が確認されるが、人物の衣紋線に見る打ち込みの目立つ短線による筆法には、狩野派の影響が看取される。さらに、『丹青若木集』には、等伯が狩野元信の3男・松栄(1519〜92)に師事したとあり、『長谷川家系譜』(仲家本)や『七尾町旧記』には、最初元信の長男・祐雪(1514〜62)に学んだとの記述もあり、狩野派の誰に学んだかという断定は難しいが、狩野派に在籍した四十歳代前半頃の筆と推定される。
 この印が捺された作品は、本図の他に現存の「蘆葉達磨図」(岡山県立美術館)と「花鳥図屏風」(岡山県・妙覚寺)、『古畫備考』に記載が認められる「四季山水人物図屏風」、所在不明の「神農図」の五点のみであり、袋形印と等伯印を繋ぐ一時期の制作と考えられる。

 

 

○猿猴図屏風[えんこうずびょうぶ]猿猴図屏風
七尾市指定有形文化財
作者:長谷川等伯
材質技法:紙本墨画
制作:桃山時代
員数:2曲1隻
法量:縦160.0cm 横240.0cm

 本図は平成27年4月に新発見作品として全国ニュースとなった作品で、発見当初は損傷が激しかったが、修復されてよみがえった。旧所蔵者である京都造形芸術大学のご厚意で、同年七尾市が購入し、同年秋に特別公開した。
 本図は「松竹図屏風」と共に伝わっているが、現段階では別の作品として紹介している。右扇の右端下部から大きな樹木の幹が二手に分かれ、その内1本は画面中央を横切って左扇へ伸び、そこに猿が1匹座っている。樹木の根元周辺には岩と笹が配されている。その猿は、「枯木猿猴図」(京都市・龍泉庵)右幅の母猿と、全く同じポーズである。「枯木猿猴図」では母猿の肩の上に子猿が描かれており、本図をよく見ると母猿の右側に子猿の小さな手が確認され、よく似た子猿が描かれていたことが想像される。次に左扇に移ると、「枯木猿猴図」の左幅に描かれる枯木にぶら下がる父猿らしき猿と、そっくりな猿が描かれている。また、右扇の母子猿は足の向きは逆であるが、「竹林猿猴図屏風」(京都市・相国寺)の母子猿とも近似し、父猿は「猿猴捉月図襖」(京都市・金地院)の猿ともほぼ同じポーズである。興味深いのは猿の毛の筆法である。本図では縮れたような描き方が特徴的で、相国寺本や龍泉庵本の筆法とは明らかに異なる。しかし、相国寺本と龍泉庵本でもかなり描き方に違いがあり、意図的に描き分けたものと解釈される。調査にあたった黒田泰三氏も述べられているように、足の立体感は的確に描写され、顔の濃墨の入れ方、淡墨の上から鋭くかつ丁寧に描き込んだ毛、笹の勢いあるタッチや右端中頃の濃墨の樹葉なども、等伯の表現といってよい。
 制作年代については、研究者の中でも若干見解が分かれる。50歳代初めとなると、相国寺本と近いが、筆法からして相国寺本より前ではないであろう。一方龍泉庵本は、線自体に重きを置いている感があり、「濃墨を多用した豪快な筆さばき」という60歳代の特徴であり、本図より後の制作と考えられる。また、本図の細く鋭い毛描きは金地院本に最も近く、両者は近い時期に描かれた可能性がある。現在のところは、50歳代後半頃の筆としておきたい。
 なお、画面の構図や、右扇と左扇の各中心には縦の褪色が見られることから、本図は6曲屏風の4扇分で、本来は左右にもう1扇分ずつあったと解される。左側には捉月図が交わって、金地院本のように水面に映る月が描かれていた可能性もある。

 

 

○松竹図屏風[しょうちくずびょうぶ]松竹図屏風
七尾市指定有形文化財
作者:長谷川等伯
材質技法:紙本墨画
制作:桃山時代
員数:2曲1隻
法量:縦160.0cm 横240.0cm

 本図は先述の「猿猴図屏風」と共に修復され、平成27年に「等伯の真筆水墨画新発見」として発表された作品である。「猿猴図屏風」と同じく七尾市が購入し、同年特別公開した。
 本図は画面左扇の左端から右上方に向って大きな松樹が覗き、右扇の右端まで緩やかなカーブを描いて枝を伸ばす。下部には土坡が描かれ、左扇松の後方から孟宗竹が茂り右扇へと続いていく。濃墨を効かせながら淡墨と巧みに描き分け、遠近感を表す。右扇に行く程淡墨で消えゆくように描かれた部分を、北春千代氏は「靄のかかったような叙情感を誘う表現が意図されている」と述べられた。
 老松の樹皮は、「老松図襖」(京都市・金地院)の樹皮の表現と酷似し、「烏鷺図屏風」(DIC川村記念美術館)の、左隻松樹の樹皮表現へと繋がっていく。さらに、竹の節と節との間の稈に、横に濃い墨を2筆入れる独特の表現や、墨の濃淡によって風になびく葉叢を巧みに表現した部分は、「竹鶴図屏風」「竹虎図屏風」(何れも出光美術館)と酷似する。「竹鶴図屏風」のメリハリの利いた墨の濃淡表現や、一気に引いた迷いのない幹の線などは、「松林図屏風」に最も近いと評価されるが、本図は墨の艶といい調子といい筆法といい、その「竹鶴図屏風」と極めて近く、注目に値する。
 本図の制作年については、「猿猴図屏風」と若干ずれるとの見方もあるが、墨色や筆の勢いなどを見る中では、「猿猴図屏風」と近い、50歳代後半頃の制作ではないかと解される。
 なお、「猿猴図屏風」と同じく各扇中央に縦の変色が見られ、本図も6曲屏風の4扇分で、本来は左右にもう1扇ずつあったと考えられる。現状でも迫力があるが、制作当初はさらに広がりが感じられる秀作であったと思われる。