●長谷川等伯(信春)とは●●●

 長谷川等伯(信春)は、桃山時代に狩野永徳率いる狩野派と対抗し、自ら「雪舟五代」を名乗り長谷川派の長として活躍した画家です。
 1539年(天文8年)、能登国の戦国大名・畠山氏の家臣である奥村文之丞宗道の子として七尾に生まれ、幼い頃に染物業を営む奥村文次という人物を通して、同じく染物屋の長谷川宗清の元へ養子に迎えられたと言われています。
 晩年、等伯が自ら語った芸術論を、親しくした本法寺第十世・日通上人が綴った『等伯画説』(京都市・本法寺)の画系譜によると、どうやら養父・宗清も絵描きであったと見られることから、或いは宗清にも学んだ可能性があると考えられています。

■能登の時代 20歳代後半〜33歳頃
「日蓮聖人坐像」七尾市・本延寺蔵 現在、知られている作品で最も初期の作品は26歳筆の落款のあるもので、能登を中心に石川県・富山県などに10数点が確認されています。これらの作品には、袋形の「信春」印が捺されており、等伯若年期には信春の名で活躍していたことが知られています。その内、奥村家の菩提寺・本延寺の等伯が自ら彩色寄進した木造「日蓮聖人坐像」(七尾市・本延寺蔵)、「日乗上人像」(羽咋市・妙成寺蔵)、「日蓮聖人像」「釈迦・多宝仏図」「鬼子母神・十羅刹女図」「三十番神図」(4点共、高岡市・大法寺蔵)、平成14年に東京国立博物館の調査で明らかとなった、33歳筆「鬼子母神・十羅刹女図」(富山市・妙傳寺蔵)は何れも日蓮宗関係であり、等伯自身も熱心な法華信者であったことがうかがわれます。

■京都・堺の時代 30歳代中頃〜40歳代
 当時の能登七尾と京都との関係は想像以上に強く、畠山の時代にも京都の文化人や僧侶が訪れており、京都の文化は海のルートでストレートに入ってきていたと考えられます。『等伯画説』の内容から、この能登地方に優れた先人の絵画が存在していたことが伺われますし、当時、法華寺院の住職は年に一度必ず本山へ出向いたとの事ですから、等伯もそういった法華の繋がりですでに京都と行き来していた可能性が高いのです。
 等伯33歳の時、養父母が相次いで亡くなっており、恐らくはそれを機に妻子を連れて上洛したのではないかと考えられています。当時の平均寿命が40歳前後と言われていますから、当時30歳を過ぎて大舞台京都を目指すには、かなりの自信と強いバックアップがあったのではないかと考えられます。

「日堯上人」京都市・本法寺蔵 さて、上洛後等伯は、本延寺の本山・本法寺の塔頭である教行院に住し、制作活動を行います。本法寺には、その当時の住職で若くして亡くなった日堯上人の肖像画が現存し、「父道浄六十五歳」「長谷川帯刀信春三十四歳筆」の款記と袋形「信春」印が確認されています。本作品は、美術作品としてはもちろんの事、等伯研究で知られた故 土居次義氏が「長谷川等伯・信春同人説」を提唱されるに至った、重要な資料としても知られています。
 能登周辺以外にも「信春」印作品が所蔵されており、その筆致からも上洛後しばらくは「信春」印を使用していたと見られます。しかし、40歳代筆とはっきり款記のある作品は現存せず、40歳代の活動については不明な点が多く、岡山県立美術館所蔵の「達磨図」と岡山県妙覚寺所蔵の「花鳥図屏風」には、主に狩野派が好んで使用した鼎(壷)形の「信春」印が捺されていることから、狩野派との関係も指摘されてきました。それが、平成14年に七尾市が購入した新出の「陳希夷睡図」によって、かなり鮮明に見えてくることになります。
「陳希夷睡図」当館蔵 本図は、樹下で眠る陳希夷の姿を描いた水墨画で、小品ではありますが確かな筆致を見ることができます。晩年の等伯作品に通ずる樹木や人物の顔描の他、興味深いのは狩野派を思わせる衣紋の線です。また、海老根聰郎氏は、梁櫂との関わりも指摘されています。京都に出て仕事をするには、等伯といえども最初はやはり狩野派の門をくぐったのかも知れません。さらに、特筆すべきは『等伯画説』の一文です。そこには、紫野(大徳寺)にある雪舟の描いたチントン南(陳希夷)の記述があり、これをそのまま解釈すれば、当時大徳寺に雪舟の描いた「陳希夷睡図」があり、等伯がその作品を見て影響を受けたとしても不思議ではないのです。すなわちこの時期は、狩野派のみならず様々な画派の絵画を学び消化吸収し、そこから等伯ならではの独自の表現を試みていった、非常に重要な期間と言えます。
 50歳代からの動向を見ればわかるように、等伯の美意識は狩野派の美意識とはかなり異なるものであり、しだいに狩野派を離れていったと思われます。そして等伯は、本法寺の日通上人や、千利休らと親交を結んでいったのではないかと考えられるのです。等伯が最も親しくしたといわれる日通上人と千利休は共に堺の出身であり、等伯の後妻である妙清(先妻の妙浄は、等伯41歳の時に死去)も堺の出身です。日通上人は、等伯が48歳の時に本法寺に入寺しますが、その前に堺で等伯と親しくなったとも考えられます。当時の堺は素晴らしい商業都市で、多くの文化人たちが集う場所でした。茶の湯も大変流行しており、茶室には中国や日本の優れた絵師による軸が掛けられていたと見られ、等伯もそれらの作品に直に接し学ぶところも多かったのではないでしょうか。
 また、現存はしないものの、45歳の時に大徳寺頭塔である総見院に「山水図」「山水図」「芦雁図」を描いたという記録が残っており、利休らを通じてこの頃より大徳寺などの大きな仕事を受けるようになっていたと見られます。これらの大きな仕事をこなすには、当然2~3人ではなくある程度のまとまった絵師たちが必要ですから、狩野派と同じとまではいかないにせよ、等伯40歳代中頃にはすでに長谷川派と呼ばれるような絵師たちを率いていたことが推測されるのです。

■京都の時代 50歳代
 等伯は51歳の時、大徳寺山門に天井画と柱絵を描いています。しかし、ここには等伯の伯の1字を異する「長谷川等白五十一歳筆」の款記があり、作風からも等伯筆を疑問視する研究者も多く、未だ確かなことは解っていません。その後、等伯52歳の時に仙洞御所障壁画の仕事が決まりそうになったのですが、狩野派の圧力により阻止されたという出来事が、勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』に記されています。この時の等伯の憤りは、大変なものであったと思われますが、その後すぐに狩野派の長である永徳が48歳でこの世を去るのです。そしてその翌年、わずか3歳で亡くなった秀吉の嫡子である鶴松の菩提寺・祥雲寺の大仕事が等伯の元に舞い込みます。今度は逆に、派の長である永徳を亡くして動揺を隠し切れないでいるところに、「京都第一の寺」と言われた祥雲寺障壁画(現 智積院)の大仕事を等伯率いる長谷川派に持っていかれた狩野派の憤りは、計り知れないものであったと解されます。等伯は、永徳を強く意識しながらも、金碧障壁画でありながら狩野派にはない抒情的な自然表現を試み、等伯はこの仕事を通して名実共に狩野派に対抗するまでになったのです。しかし、その等伯に次々と悲しみが襲います。この障壁画完成の前年に、良き理解者であった千利休が自刃するのです。そして、その悲しみの中で完成させた矢先、等伯の片腕となって制作にあたった息子の久蔵までが、26歳という若さで亡くなってしまうのです。
 その悲しみを背負って描いたと言われるのが、「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)です。これは等伯筆「楓図」や久蔵筆「桜図」など祥雲寺の一連の障壁画と同じく、国宝に指定されています。この松林図は、日本を代表する水墨画の名作として特に近年注目を集めていますが、紙継ぎがずれていることや、捺されている「等伯」印が後印と見られること、それに加えて最近「月下松林図屏風」(個人蔵)の存在が明らかとなり、「松林図屏風」は本画ではなく下絵の可能性があると見る研究者もいます。しかし、いずれにしてもこの国宝本の筆者は等伯以外には考えられず、広く一般や専門家たちの間でも周知のこととなっています。

海岸沿いの松林 当時、七尾の海岸沿いにはずっと松林が続いていたと考えられます。描かれた松林は、強風に耐え細く立ちすくむ能登の松林に、あまりにも似ています。良き理解者である千利休を亡くし、息子久蔵を失った等伯の目に映ったのは、郷里七尾の松林だったのかも知れません。心象風景とも見えるこの「松林図屏風」には、大切な人たちの死を乗り越え、水墨画にその境地を求めていった等伯の心情が映し出されているのです。  等伯50歳代は、深い悲しみに見舞われながらも、「松林図屏風」をはじめ「竹林猿猴図屏風」(相國寺・承天閣美術館蔵)や「樹下仙人図屏風」(京都市・壬生寺蔵)、「枯木猿猴図屏風」(妙心寺・龍泉庵蔵)や出光美術館所蔵で知られる「竹鶴図屏風」「松に鴉・柳に白鷺図屏風」「竹虎図屏風」など多くの優れた水墨画を制作し、画家としては最も充実した時代だったとも言えるのです。

■京都の時代 60歳代
 等伯は、老年期とも言われる60歳になっても次々と大作を手掛けていきます。61歳の時には、妙心寺隣華院の襖に「山水図」襖を描いています。そして、63歳の時には大徳寺塔頭の真珠庵の襖に「商山四晧図」「蜆子猪頭図」を描き、その翌年には南禅寺塔頭の天授庵に「商山四晧図」「禅機図」「松に鶴図」などの襖絵を制作しています。しかし、この頃になると若干等伯の筆とは解しにくい部分も見受けられ、等伯も多くの長谷川派絵師を従え、一派で制作にあたったものと推測されます。
 一方で等伯は、親しくした人物の肖像や「大涅槃図」なども描いています。本法寺所蔵の「大涅槃図」は、京都三大涅槃図の一つに数えら

「大涅槃図」京都市・本法寺蔵れる大幅で、華やかな描表具を含めると高さ10mにも及びます。本図は供養を行う前に宮中に持参し、披露したという記録も残っている作品で、「雪舟五代」と「六十一歳」の書き込みがあり、60歳前後から「自分は雪舟より五代目なのだ」ということを強く打ち出し、より長谷川派の結束を固めようとしたと解されます。注目されるのは、本図表具の裏には日蓮聖人以下の諸祖師、本法寺開山の日親上人以下歴代住職及び、祖父母や養父母、等伯より先立った息子たちなどの供養銘が記されていることです。老齢の等伯が、一派で描いた大涅槃図…いったいどんな思いで描いたのでしょうか。この大きな画面の中で嘆き悲しむ弟子や動物たちを前にした時、まるで先立っていった人々への等伯の哀悼と供養の想いが伝わってくるようです。
 等伯は66歳の時「法橋」に叙せられています。これは元々、宮中から高僧に対して授ける位でしたが、功績のあった優れた絵師たちにも与えられるようになりました。『御湯殿上日記』によると、等伯がそのお礼に屏風1双を宮中に持参したと記されています。当時は、この位を貰うために様々な品が献上されたといわれますが、屏風の場合4双程度必要であったといいますから、そのまま解釈すると等伯の1双というのは特例ではないかと思われます。それから、長谷川家の系図には、等伯は67歳の時、法橋の次の位である「法眼」に叙せられたと記されています。これを裏付けるように、アメリカのボストン美術館には「自雪舟五代長谷川法眼等伯筆 六十八歳」の落款のある「龍虎図屏風」が現存しています。しかし、当時一般的には「法橋」から「法眼」までは4~5年かかるとされており、1年後となるとかなり異例のことと言えることなどから、この「法眼」叙任については疑問視する研究者もいます。また、故山根有三氏はその問題に加え、制作中の等伯が慶長九年(66歳)12月に高所より墜落し、右手が不自由となるという記録(『医学天正記』)に注目、それを裏付けるようにそれ以降の作品は線描も粗く硬く繊細さに欠けることなどの理由から、67歳以降の落款がある作品については、ほとんどが弟子の筆と提唱されています。

■京都の時代 70歳〜72歳
 等伯70歳の時、親しくしていた本法寺の日通上人が亡くなり、等伯はその日通上人の肖像を描いています。また、71歳の時には大徳寺塔頭の高桐院住職・玉甫紹王宗の肖像も描いていますが、いずれも若年期の肖像画と比較すると線描は簡略化されてかなり異なることや、「日通上人像」にある「自雪舟五代 長谷川 法眼 等伯筆 七十歳 戒名日妙」の書き込みと「長谷川」「等伯」印も後落款とする見方もあり、やはり等伯筆を疑問視する声もあります。しかし、日通は最も親しくしたと見られる人物ですから、その肖像画を弟子に描かせるとは考えにくいのではないでしょうか。また、作品からは日通の実直な人柄までもが伝わってきますし、やはり日通をよく知リ尽くした等伯が、筆力の衰えを実感しながらも描いたのではないでしょうか。
 慶長15年、等伯72歳の時に徳川家康から江戸に呼ばれ下向しますが、現在のような便利な交通手段があるわけもなく、72歳という高齢で江戸に向かうというには、かなりの覚悟があったと思われます。後の長谷川派の命運をかけての一大決心だったのでしょう。しかし、高齢の等伯にとってこの長旅は、やはり無理があったのでしょう。途中で病に冒され、江戸到着後2日目に亡くなってしまうのです。さぞかし無念であったと思います。長男の久蔵亡き後、等伯の後継者となるはずの二男・宗宅も等伯に同行しますが、等伯が没した翌年に亡くなっています。

■その後の長谷川派
 等伯を失った後の長谷川派には、等伯と並ぶほどの弟子が存在しなかったのか、完全に工房体制を確立していた狩野派の様には振る舞えず、次第に勢力を失っていきます。しかし、三男・宗也や四男・左近の絵馬や扁額、屏風などの存在も知られる他、特に左近あたりは他派の作風を積極的に取り入れ、時代に対応していった様子が窺われます。また、江戸時代には長谷川派の絵師が城内障壁画などの仕事で、狩野派と共に参加していたことが記録に残されていますし、京都周辺に限らず全国的に作品が点在していることなどから、必ずしも長谷川派に固執せず、幅広く様々な仕事に参加していったものと推測されます。

■年表

西暦 年号 等伯年齢 長谷川派関連事項(等伯及び息子の事項を中心に記載)
※等伯は40歳代頃まで「信春」を名乗ったといわれるが、表記は「等伯」で統一。※人物名記載のない作品・事柄については、等伯の関連事項。※掲載事項は平成15年10月現在のものである。
1539 天文8 1 長谷川等伯、能登国七尾に生まれる 実父は能登守護畠山氏の家臣・奥村文之丞宗道、のちに染物屋を営む長谷川家の養子となる。若い頃の名は信春、又四郎、帯刀など
1563 永禄6 25 この頃「日乗上人像」(羽咋市・妙成寺蔵)
1564 永禄7 26 「十二天図」(羽咋市・正覚院蔵) 「日蓮聖人像」「鬼子母神・十羅刹女図」「釈迦・多宝仏図」(高岡市・大法寺蔵、全て重文) 「八臂弁財天十五童子図」(個人蔵) 木彫「日蓮聖人坐像」(七尾市・本延寺蔵)彩色 この頃「善女龍王図」(当館蔵)
1565 永禄8 27 「日蓮聖人像」(七尾市・實相寺蔵)
1566 永禄9 28 「三十番神図」(高岡市・大法寺蔵、重文)
1568 永禄11 30 「涅槃図」(羽咋市・妙成寺蔵) 長男・長谷川久蔵生まれる
1571 元亀2 33 「鬼子母神・十羅刹女図」(富山市・妙傳寺蔵) 養父・宗清(道浄)、養母・妙相没(共に享年不詳) この頃に上洛し、本法寺塔頭教行院に滞在する
1572 元亀3 34 「日堯上人像」(京都市・本法寺蔵、重文)
1570 年代頃 元亀~ 天正初年頃   この頃「牧馬図屏風」(東京国立博物館蔵) この頃「愛宕権現図」(当館蔵) この頃「伝名和長年像」(東京国立博物館蔵、重文) この頃「武田信玄像」(高野山・成慶院蔵、重文)
1579 天正7 41 妻・妙浄没(享年不詳) この頃「花鳥図屏風」(岡山県・妙覚寺蔵、重文) この頃「陳希夷睡図」(当館蔵)
1583 天正11 45 大徳寺総見院「水墨山水、松猿、竹鶴、芦雁図」(現存せず)
1589 天正17 51 「大徳寺山門天井画・柱絵」(京都市・大徳寺蔵、重文)現存する唯一の「等白」記名作品 この頃名を等伯と改める 大徳寺三玄院「山水図襖」(現 圓徳院および楽家蔵、重文) 妙清を後妻に迎える この頃「瀟湘八景図屏風」(東京国立博物館蔵)
1590 天正18 52 御所造営に際し、対屋の障壁画制作を巡って狩野永徳一門と対立する この頃「竹林猿猴図屏風」(京都市・相國寺蔵、重文) 三男・長谷川宗也生まれる
1591 天正19 53 この頃「竹鶴図屏風」(東京都・出光美術館蔵)
1592 文禄元 54 この頃、本法寺第十世住職・日通上人著『等伯画説』(京都市・本法寺蔵、重文) 久蔵「朝比奈草摺曳図絵馬」(京都市・清水寺蔵)
1593 文禄2 55 等伯一門「祥雲寺障壁画」(現 京都市・智積院蔵、国宝) この頃「松に鴉・柳に白鷺図屏風」(東京都・出光美術館蔵) 長谷川久蔵没(享年26歳) 四男・長谷川左近生まれる
1594 文禄3 56 「春屋宗園像」(京都市・三玄院蔵) この頃「松林図屏風」(東京国立博物館蔵、国宝)
1595 文禄4 57 「利休居士像」(京都市・不審庵蔵、重文) この頃「樹下仙人図屏風」(京都市・壬生寺蔵、重文) 等伯一門、この頃「妙蓮寺障壁画」(京都市・妙蓮寺蔵、重文)
1598 慶長3 60 「妙法尼像」(京都市・本法寺蔵、重文) この頃「枯木猿猴図」(京都市・龍泉庵蔵、重文)
1599 慶長4 61 「仏涅槃図」(京都市・本法寺蔵、重文)を描き、宮中に持参したのち、本法寺に寄進する この頃本法寺本堂「天井画、襖絵」(現存せず) 妙心寺隣華院「山水図襖」(京都市・隣華院蔵、重文) この頃「波濤図」(京都市・永観堂禅林寺蔵、重文) この頃から「自雪舟五代」を自称するか 長谷川派絵師・長谷川等誉「白描涅槃図」(七尾市・成蓮寺蔵)
1601 慶長6 63 大徳寺真珠庵「商山四皓図襖」「蜆子猪頭図襖」(京都市・真珠庵蔵、重文)
1602 慶長7 64 南禅寺天授庵「商山四皓図襖」「禅機図」など(京都市・天授庵蔵、重文) 大徳寺「高桐院障壁画」(現存せず)
1603 慶長8 65 日親上人筆「本尊曼荼羅」(京都市・本法寺蔵、重文)を本法寺に寄進する 大徳寺「金龍院襖絵」(現存せず)
1604 慶長9 66 法橋となり、その礼に屏風一双などを宮中へ献上する 本法寺天井画制作中に転落、右手不自由となるか 後妻・妙清没(享年45歳)
1605 慶長10 67 法眼となるか
1606 慶長11 68 「龍虎図屏風」(アメリカ・ボストン美術館蔵) この頃「烏鷺図屏風」(千葉県・川村記念美術館蔵、重文) 長谷川派絵師・長谷川等胤、下総国香取神社(千葉県佐原市)の建築彩色を行う
1607 慶長12 69 「竹林七賢図屏風」(京都市・両足院蔵) 「烏梟図屏風」(大阪市立美術館蔵)
1608 慶長13 70 日通上人没(享年58歳) 「日通上人像」(京都市・本法寺蔵、重文) 「弁慶・昌俊図絵馬」(京都市・北野天満宮蔵、重文) 大徳寺「龍光院襖絵」(現存せず)
1609 慶長14 71 「玉甫紹●(王に宗)像」(京都市・高桐院蔵) 「十六羅漢図屏風」(京都市・智積院蔵) 等誉「涅槃図」(七尾市・本延寺蔵)
1610 慶長15 72 二男・長谷川宗宅を伴い、江戸へ下向する 長谷川等伯没(享年72歳) 宗宅、法橋となり、その礼に金子を宮中に献上する 等誉「法華経見返絵」(個人蔵)
1611 慶長16   長谷川宗宅没(享年不詳)
1613 慶長18   等伯の娘婿・長谷川等秀没(享年不詳)
1617 元和3   長谷川派絵師・長谷川等仁、明石城(兵庫県明石市)襖絵制作に参加するか
1620 元和6   等胤「瑞巖寺障壁画」(仙台市・瑞巖寺蔵)制作に参加する
1623 元和9   等伯の娘婿・長谷川等学(等岳)没(享年不詳)
1624 寛永元   左近「三番叟図絵馬」(佐渡・実相寺蔵)
1629 寛永6   長谷川派絵師・長谷川宗圜(等雪)「藤花・牧牛図屏風」(大津市・盛安寺蔵)
1630 寛永7   左近「三十六歌仙図板絵」(滋賀県・海津天神社蔵) 左近、この頃「自雪舟六代」を自称するか
1636 寛永13   長谷川等誉没(享年不詳)
1637 寛永14   長谷川宗伯信近生まれる
1657 明暦3   宗也「大黒布袋角力図板絵」(京都市・八坂神社蔵)
1662 寛文2   宗伯信近、法橋となる
1664 寛文4   宗也「虎図絵馬」(京都市・清水寺蔵)
1667 寛文7   長谷川宗也没(享年78歳)

■所蔵作品

○善女龍王図[ぜんにょりゅうおうず]
石川県指定有形文化財善女龍王図
作者:長谷川信春(等伯)
材質技法:絹本著色
印章:「信春」朱文袋形印
制作:室町末期
法量:縦35.5cm 横16.3cm

「善如龍王」は、元々インドの無熱達池に住む八寸(24cm)の金色蛇で、九尺(270cm)の蛇の頂きに住むと言われる。密教系の仏で、天長元年淳和天皇からの勅命により空海が、神泉苑において請雨修法した折に応現したと伝えられる。「善女龍王」とも書き、本図は頭頂部に八寸ほどの金色の龍(蛇)を戴き、右手に三鈷杵の剣を持し、左手には如意宝珠を戴いた女形の童子像として描かれている。しかし善如(女)龍王を描いた代表的作品として知られる、高野山・金剛峯寺蔵の定智筆、国宝「善如龍王図」の龍王は、中国官服を着して雲上に立つ男神として描かれ、裾の後に蛇の尾が僅かにのぞいた姿で表されている。本図については、清滝権現との関係を今一度見直す必要があるかも知れない。 画面の状態は比較的良好で、信春時代の特徴である優美な色彩を見ることができる。小品ながらも存在感があり、能登時代に多くの仏画を手掛けた等伯の技量が窺える。また、等伯は熱心な法華信者で、特に法華宗関連の仏画を多く描いているが、宗派にこだわらず幅広く仕事をこなしていたことが分かる。 興味深いのは、同じく能登時代に描いた一連の仏画との共通点である。特に宝冠は、「弁財天十五童子画像」(穴水町指定文化財・個人蔵)とほぼ同じ形状である。これらの仏画と照らし合せると、恐らく能登時代の28歳から30歳頃の制作であろう。

 

 

○愛宕権現図[あたごごんげんず]愛宕権現図
石川県指定有形文化財
作者:長谷川信春(等伯)
材質技法:絹本著色
印章:「信春」朱文袋形印
制作:室町末期~桃山初期
法量:縦81.3cm 横36.3cm

京都の山城愛宕山朝日の峯にまつられてきた愛宕権現は、一般には勝軍地蔵として人々の信仰を集めてきた。特に武家の信仰が盛んで、甲冑を身に着けて軍旗と剣を持ち、乗馬姿で描かれることが多い。本図もほぼ同じ様相で、左手には如意宝珠を戴いている。 制昨年については、当時この辺りに愛宕神社があったことが分かっている他、「十二天図」(県文/羽咋市・正覚院蔵)との共通点が多いことから、26歳頃の制作との見方もある。しかし、火焔の描き方やその存在感のある顔の表現には明らかに上達の跡が確認される。仏画の場合は一般的なスタイルがあるものの、恐らくは上洛後間もない頃、京都の社寺関係からの依頼で描いたと見るのが自然ではないだろうか。 肉眼では確認し辛いが、画面右下に「信春」袋形印がある。

 

 

○山水図[さんすいず]
山水図七尾市指定有形文化財
作者:長谷川信春(等伯)
材質技法:紙本墨画淡彩
印章:「信春」朱文袋形印
制作:室町時代
法量:縦52.8cm 横38.5cm

本図は『国華』937号(昭和46・1971)に徳永弘道氏が「長谷川信春筆 山水図」として紹介された作品で、長く未公開であったが、2012年1月に岡山県立美術館で開催された「長谷川等伯と雪舟流」展で公開された。
本図は一部に淡彩が施された真体の水墨画で、橋を渡る高士と琴を携える童子が描かれていることから、「琴棋書画図」の場面を取り入れたものかもしれない。右下部に捺された「信春」袋形印やその筆致から、数少ない信春時代の水墨画とされ、一見して「寒江渡舟図」(個人)を想起する。特に枝振りなど、樹木の表現は明らかに近似する。また、斜めに倒れかかるように描かれた松の枝の形状や人物は、まだまだ完成されたものではないが、京都市・隣華院の61歳筆「山水図襖」への繋がりを見せている。
山根有三氏は個人蔵の「山水図」(2幅)や「寒江渡舟図」もあわせて、もとは押絵貼屏風の一部であった可能性を指摘されているが、2幅本の方は樹木の表現などに多少の相違を感じる。それが年代的な違いなのかは定かではないが、同時期に描かれた押絵貼屏風であるかは断定できない。
手本とした作品は不明だが、狩野派の特徴が顕著な「春耕図」(京都国立博物館)とは筆法も趣も異なり、或いは玉畹梵芳などによる賛がある、応永12(1405)年筆の「柴門新月図」(大阪市・藤田美術館)や、春屋宗園に参禅し大徳寺に孤篷庵を建てた小堀遠州の愛蔵品であったとされる、文清筆「山水図」(米国・ボストン美術館)などに共通性が見出せるかも知れない。すなわちそこには、様々な室町水墨画や中国絵画を学習し、吸収しようとする若き信春の姿があり、恐らくは30歳代の制作であろう。

 

 

○陳希夷睡図[ちんきいすいず]陳希夷睡図
石川県指定有形文化財
作者:長谷川信春(等伯)
材質技法:紙本墨画
印章:「長谷川」朱文長方形印、「信春」朱文鼎形印
制作:桃山時代
法量:縦48.1cm 横23.1cm

本図は、樹下で睡眠をとる仙人を描いた水墨画である。 特筆すべきは、左下部に捺された2印である。「長谷川」朱文長方形印と「信春」朱文鼎形印の内、後者が捺された作品は現在2点しか確認されておらず、20歳代後半頃から30歳代頃に使用した袋形「信春」印と、50歳代から使用した「等伯印」との間の、一時期にのみ使用されたものとして注目されている。 等伯は晩年、自ら雪舟五代を名乗り、『等伯画説』(等伯が語ったものを、親しくした本法寺住職・日通上人が筆録したもの)にも、等伯が雪舟、等春の流れを汲むということが記されている。しかし、実際にそれを強く裏付ける作品は、本図と同じ鼎(壷)形印を持つ「花鳥図屏風」だけと言われてきた。その様な中で、本図はまさにそれを示す作品であり、等伯研究者たちが捜し求めていた作品なのである。 筆の流れ、墨の溜まりは雪舟を思わせ、この特殊な寸法については、等春も影響を受けた中国宋元絵画に基づくものと思われる。不透明であるとされている、等伯40歳代の動向を知る上でも注目されることは間違いない。 全国的に周知のように、等伯作品はまず世に出ることはないと言われている。絵手本を元に描く仏画とは違い、この作品は小品ではあるが等伯の創作的絵画であり、筆致を見ても資料的にも大変貴重な作品と言えるであろう。